世の中には色んな常識があり、決まり事があり、ルールがある。
憲法で人権が保障されていること、国民皆保険制度が存在すること、街を全裸で歩いてはいけないこと、等々は私たちにとって常識であり、決まり事であり、ルールでもある。
けれどもそれらは社会のなかでつくられた「社会構築物」なので、国や時代や社会環境が違えば常識でも普遍的でもなくなる。
もし今、私たちの社会が時代の分水嶺にあって、これから急速に変わってゆくとしたら、私たちが自明で普遍的だと思っている常識や決まり事やルールは破壊されるか、控えめにいっても変質するだろう。
復習:かつて、中世という時代があった
かつて、中世という時代があった。
中世はすでに終わった時代とみなされていて、 そこから近世→近代へと時代が変わったとされる。中世という時代を無理矢理に3行にまとめると、
・宗教の強さ:宗教的権威が強く、宗教的な決まり事やルールの力もすごく強い
・封建領主制度。財産などの所有は究極的には封建領主の武力に根拠づけられる
・商業制度は発展途上。近世に向かって商人階級が次第に力をつけていく
となるだろうか。
「カノッサの屈辱」などでも知られるように、中世の西ヨーロッパではカトリックが権勢を誇り、世俗の封建領主たちを上回るほど勢いを持っていた。そんな社会環境でカトリックの教えに異論を唱えたり無断改変したりしたら大騒動になった。
と同時に、民草の生殺与奪や財産は封建領主の武力と封建制度次第だった。王も含めた封建領主たちひとりひとりの力は今日の中央集権国家よりずっと弱かったから、王は貴族や騎士の忠誠を必要とし、貴族や騎士は王による保護を必要としていた。
この時代にはいわゆる警察は存在しないから、生き残るためには封建制度の主従関係に連なったり、血縁や地縁に連なったりしなければならない。荒事も多かったから帯剣も必要だったし、生き残るには頭の良さよりもフィジカルの良さがモノを言っただろう。
ところが大航海時代によるグローバリゼーション、黒死病、宗教的権威の動揺、商人階級の台頭などをとおして中世は時代遅れになり、中世の常識やルールも破壊されていった。
時代が進むにつれて宗教は弱くなり、たとえば世界の成り立ちを科学的に説明してもガリレオ・ガリレイのように宗教裁判にかけられることはなくなった。
商業階級が台頭し、(絶対王政のような)中央集権国家ができあがるなか、社会契約説などの新思想が広まり、武力や主従関係に依存しない土地所有や財産所有が認められていった。
人間自身も、生まれた土地や身分に束縛されなくなりはじめ、自由な移動が可能になっていった。資本家と労働者という新しい階級が生まれたとはいえ、旧来の身分制度は崩壊していく。
時代の移り変わりを考えるうえで、中世とその終わりは示唆的だ。
ひとつ。ある時代に絶対的と思われていたルールや決まり事はけっして絶対ではない。たとえば中世ヨーロッパではカトリックの教えは普遍的とみなされていたが、カトリックの統治や制度のたがが緩むにつれて絶対的でも普遍的でもなくなった。
封建制度と主従関係もそうで、領主の没落、(大航海時代による)グローバリゼーションの進展、商人階級の台頭、黒死病の蔓延などをとおして形骸化し、国民国家の誕生をもってとどめを刺された。
ふたつ。ルール、決まり事、常識といった「社会構築物」はそれ単体で世の中に流布しているわけでなく、本当は、統治システムや社会環境やテクノロジーの進歩に依存している。
中世ヨーロッパが中世ヨーロッパらしくあれたのは、カトリックによる統治がうまくいっていて、封建領主たちの力が弱くて、人やモノの移動が小さくて、商人階級もまだ弱かったからだった。
活版印刷のようなマスメディア技術が存在せず、思想やイデオロギーをカトリック教会が独占しやすかったことも大きいだろう。
そうした「中世の前提条件」が破壊されていくにつれて、中世という時代は中世らしさを失い、そうではない時代──近世、ひいては近代へ──が始まっていった。中世という時代は、中世の政治体制や常識やルールごと終わってしまったのである。
じゃあ、近代(と現代)はどうなの?
そうしたうえで近代という時代について考えていただきたい。近代 modern がいつから始まったのかはここでは問わない。しかし近代というからには、
・資本主義に基づく生産体制や市場経済、資本家と労働者
・科学的手法に基づいた世界の理解
・自由意志と理性を軸とした進歩主義と啓蒙主義
・社会契約説が成立可能な中央集権国家の誕生と官僚制
・身分からの解放、能力主義に基づく職業選択
・移動の自由。移民や移住。村社会から契約社会へ
・個人の心理においてはプライバシー感覚や自己アイデンティティの誕生
が揃っているべきだし、実際揃っていたように思う。近代が始まってからこのかた、上に挙げた7つの要素は次第に色濃くなり、多かれ少なかれ世界じゅうに広がっていき、それぞれの国のなかでは知識階級から非知識階級へ、支配階級→中間階級→庶民階級へと広まっていった。
もちろん、いつでも近代が順風満帆だったわけではない。ファシズムの台頭やホロコーストは進歩主義や啓蒙主義に泥を塗ったし、思想面ではポスト近代(ポストモダン)が論じられるようになった。20世紀後半には宇宙開発もいまいち停滞しているようにみえた。
それでも全体としては、近代という時代は続いてきて、さきほどの7つの要素は世界の各地でしぶとく広がってきたように思う。イギリスの社会学者のアンソニー・ギデンズは、現代のことをポスト近代ではなく後期近代と呼んだが、しっくり来る表現だと思う。
なぜなら上掲の7つの要素は開発途上国にも(多かれ少なかれ)広まり続けたし、ポストコロニアリズムや移民制度やウーマンリブなどをとおして制度として前進し続け、正当化され続けてきたからだ。
テクノロジーだって進歩してきた。宇宙開発が目立たなかった頃には情報産業が急成長し、最近はAIの開発が目につく。細かな瑕疵を挙げればきりがないが、それでもなお、地球規模でみれば近代はまだ続いていて、まだ広がっていて、まだ進歩が続いているように見えていた。少なくとも、コロナ禍の前ぐらいまでは。
近代(現代)の与件が崩れようとしている
ところが2020年代に入ってから、なんだか風向きが変わってきた。いや、実際にはアメリカ同時多発テロ事件の頃には何かが始まっていたのかもしれないし、2016年にイギリスがEU離脱を決定した頃にはけっこう進んでいたのかもしれない。
しかし決定的に思われたのは、トランプ大統領が二期目に入ったあたりから起こった、さまざまな出来事だ。
資本主義そのものは健在だが、金融資本主義化したそれは18~20世紀のそれと同じとは思えない。
特に先進国では、スキルフルな労働者が零落していき中産階級から脱落していった。AIの普及はその趨勢を加速させることはあっても減速させることはない。
インターネットやSNSは、人々を啓蒙する以上にフェイクで幻惑した。
ひとつひとつの出来事の真偽も問題だが、真偽についてしっかり考えるよりも信じたいものを信じる人が増えたこと……というより、SNSという新興メディアにおいて、信じたいものを信じる人々と彼らが信じたいものを投げ与えるアジテーターのプレゼンスがめちゃくちゃ大きくなることが、啓蒙主義や科学主義を大きく毀損した。
そうでなくても、学問や仕事の専門分化が進んだせいで、他職の存在意義が非常にわかりにくくなった。もちろん肥大化した社会制度の全体像など誰にも把握できない。そんな風に専門分化に隔てられた視界のなかで、真偽について適切に判断していくのは著しく難しい。
その一方で、大都市への人口流入、個人主義と資本主義の民衆への浸透などは少子化を加速させ、かつては近代という時代の枠組みの外側で育まれていたはずの世代再生産を実質的に「やりたい人だけがやる趣味のようなもの」にまで追いやってしまった。
この少子化問題などが最もわかりやすいが、近代という時代とその恩恵も、本当は、近代という時代を成立させるための(前近代的なものも含めた)さまざまな前提条件に依存した「社会構築物」だった。
少子化が急激に進行した場合、そもそも中央集権国家を成立させるための人口学的与件が破壊されるため、その国では近代という時代、ひいては近代という体制は持続不可能になってしまう。
近代が始まって時間があまり経っていない頃、つまり欧米列強で資本家や知識人を中心とする市民社会が生まれて啓蒙主義や科学的思考が社会に浸透しはじめた頃は、近代はだいたい順調に進行し、その前提条件について考える必要性はあまりなかった。
せいぜい考える必要があるとしたら、天然資源の枯渇や公害の発生といった自然の搾取についてまわる問題で、社会自体がつくりだしている問題、たとえば児童労働のような問題は近代の精神に沿うかたちで解決されていった。人種差別や女性差別も少しずつ解決に向かい、平均的な学力も高まっている……はずだった。
でも、今はそうじゃない。
近代の諸精神──資本主義や社会契約や個人主義──が国民の末端にまで届いた国では、個人主義的で資本主義的な男女が子どもをあまりつくらなくなった。
なぜなら子育てはコスパが悪く、リスクや不確実性を回避するうえで邪魔だからだ。夫婦をはじめとする親密圏の形成も、ごく最近に近代の諸精神を受け入れた国々の人々には解決しづらい課題になっている。
自由意志に基づいた自己決定も、この複雑すぎてメディアに流されっぱなしの状況のなかでは不確かだし、正直、もう自己決定なんてしたくない人も多いのではないだろうか。
そうした困難を克服できる個人ももちろんいようし、そういう個人なら、近代にしがみつくことは現在でも可能だろう。
おそらくそうした個人は、社会平均に比べて経済資本も教育資本も多く持っている人たち、おそらく18世紀や19世紀においてさえ近代的でいられたような立場にある個人と思われる。
でも、20世紀から21世紀にかけて庶民階級にまで近代の諸精神が浸透、いや、滲入した時、その近代を持て余すことなく内面化し、葛藤することなく近代人をやってのけられる人はどれぐらいいただろうか?
これが高度経済成長期だったら、物質的豊かさによってなにもかも棚上げできたのかもしれない。女子高生でもブランド品で身を固められるような経済状況は、なにもかもを麻酔する。
しかし日本では四半世紀ほどで、韓国や台湾ではもっと短い期間のうちに、高度経済成長期は終わってしまった。近代的な常識やルールを内面化したけれども豊かさの約束が果たされない人々がたくさん生み出されることになった。
にもかかわらず、近代を主導する人々は、そうした人たちにも啓蒙主義や科学主義を押し付け続ければそれで事態が改善する……と、考え続けているように私には見えてならなかった。
14年前に私は「勉強できる人しか便利に暮らせない社会」というブログ記事を書いた。
近代の命じるままに社会が進歩すればするほど、勉強できる人しか便利に暮らせない社会、啓蒙主義や科学主義に馴染む人しか暮らせない社会になる。
ところが近代とその旗手たちは、そうしたプロセスにどうしてもついていけない人々や近代とは相いれない感じの人を見て見ぬふりをするか、啓蒙さえすれば誰でも啓蒙主義や科学主義によく馴染んだ近代人になれるかのように主張し続けた。
精神病院への病者の収容も、そうしたムーブメントの一環だったかもしれない。ある時期まで、近代という時代は近代についていけない人間を巨大精神病院に収容するというソリューションを選択した。
近代社会を構築するにはそれにふさわしい近代的な人間が必要で、それができない人間は精神病院に収容、というわけだ。もちろん、今日においてそれは人権侵害だから収容というソリューションは廃れたし、廃れたこと自体、近代の進歩を証明するものだった。それはいい。
じゃあ今はどうだろう? 十分に近代が進歩し洗練された現代社会では、近代についていけない人間を収容したりはしない。
だけど世間においては、進歩し過ぎた近代についていけなくなっている人間が爆増しているのではないだろうか。
2020年代において近代という時代が期待している人間像は、流動化し高度化した金融資本主義経済についていける人間、ますます加速するテクノロジーを使いこなせる人間、リスクや不確実性の高い状況でも自由意志に基づいた適切な決定が可能な人間だ。SNSに流布しているフェイクに騙されない人間でもあるべきだろう。
だがそんなことが本当に可能か? もし、それらができない人間を近代についていけない人間だとみなすなら、いったい全人口の何割が2020年代において近代が要請する人間像をみたせる? 7割か? 5割か? 3割か?
一言で近代と言っても、近代が始まって時間が経っていない18~19世紀の頃と、近代が広く浸透し進歩しまくった後の21世紀では、私たちを取り囲む統治システムや社会環境やテクノロジーはあまりにも違い過ぎている。
違い過ぎているからこそ、近代にふさわしいとされる人間像も違い過ぎているし、近代という体制を続けるための前提条件も厳しくなっている。この、「近代を続けるための前提条件」という視点でいまどきの社会と人間とを振り返ってみると、もう近代無理じゃね? とか、近代諦めようぜ? と私には思えてならない。
欧米列強が弱ってきても近代はなくなっていく
これからどうなるのだろう?
まず、近代が今以上に終わって「後期近代」やポストモダンといった言葉さえ生ぬるいほど変わってしまうかどうかについて。
私は、終わるんじゃないかと踏んでいる。近代を続けるための前提条件はますます厳しくなり、民主主義も含めた社会制度はすっかり制度疲労している。
インターネットが普及してからの情報環境はますます人間の手に負えず、たぶん、これからもっと手に負えなくなる。再びメディアを支配階級や知識階級の占有物とするなら、そうした潮流にいったん歯止めをかけられるかもしれないが、そのような逆行じたい、近代という物語、近代という時代に終止符を打つものになってしまう。
それと、つべこべ言っても近代という時代は欧米列強によって主導されたもので、地球規模で考えた場合、欧米列強のプレゼンスが弱まるほど近代とその精神も尻すぼみになってしまうだろう。
中国がますますプレゼンスを拡大し、グローバルサウス諸国も力をつけ、そうした国々の人々を白けさせてしまう言説を欧米自身が垂れ流し続けるとしたら、近代とその精神はますます尻すぼみになる。
欧米列強の没落は近代という時代、近代という思想、近代という体制の没落にも直結する。ではその後は?
プレゼンスの栄枯盛衰に沿って考えるなら、中国という時代、中国という思想、中国という体制が次第に幅を利かせていくんじゃないだろうか。それ以外では南アジアか、中東か、アフリカか。
いずれにせよ、地球における体制や権力は多極化する。もちろん、ここでいう多極化とは、近代とその担い手たちが夢想してきたような「実際には欧米列強に率いられグローバリゼーションという統治の片棒を担いできた、口先ばかりの多極化」ではなく、もっと抜き差しならない多極化、体制や権力の多極化、そして衝突だろう。
それはこれまでよりずっと不安定な時代だと想像されるが、よほどのことが無い限り、そうした多極化は避けられないように思われる。
それこそが、リオタール風にいう『大きな物語の終わり』ってやつではないだろうか。
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【プロフィール】
著者:熊代亨
精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。
通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。
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ブログ:『シロクマの屑籠』
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